北方領土とは、北海道の東北部の海に浮かぶ択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島(多楽
島、志発島、勇留島、秋勇留島、水晶島)の4つの島々からなる地域の総称で、北方四島と
呼ぶこともあります。
 北方領土全体の面積は 5,003㎢で、千葉県や愛知県にほぼ匹敵する広大な面積を有してい
ます。
 また距離的には、根室半島東端の納沙布岬から歯舞群島の貝殻島までは、僅か 3.7㎞しか離
れていません。
 北方領土の島々は自然に恵まれていて、特に周辺の海は暖流の日本海流(黒潮)と寒流の
千島海流(親潮)が交わる海域のため、水産資源に恵まれ世界有数の漁場に数えられていま
す。

 

 北方領土は私たちの祖先が心血を注いで開拓した我が国固有の領
土です。その北方領土を、昭和20年の第二次世界大戦が終わった直
後に、ソ連が一方的に占拠し、日本人を追い出してソ連国民を移住
させました。
 当時、北方領土に住んでいた約1万7千名余りの島民のうち、約半
数は命からがら自力で脱出し、それ以外の島民は島から強制退去さ
せられ、サハリンでの抑留生活を経て、日本に送還されました。
 北方領土は、我が国固有の領土でありながら、戦後60余年を経た
現在もロシアによる不法占拠が続いており、北方領土問題は、日本
とロシアの大きな政治問題となっていますが、今なお、解決の糸口
すら見えていません。

 
 
北方領土返還運動のはじまり

 

 ソ連によって不法占拠された北方領土を自分た
ちの手に取り戻そうと、返還要求の声があがった
のは昭和20年の終戦後間もない頃からです。
 当時の安藤石典根室町長が、昭和20年12月、連
合軍最高司令官マッカーサー元帥に対し北方領土
返還の陳情書を送りました。
これが北方領土返還運動の始まりとされています。

    
安藤石典根室町長     安藤町長がマッカーサー元帥に
   宛てた陳情書
 
根室で立ち上がった北方領土返還運動

 マッカーサー元帥への陳情がきっかけとなり、その翌年には、元
島民と根室町民を中心に安藤町長を会長とする「北海道附属島嶼復
帰懇請委員会」が誕生しました。それ以後、この組織が母体となっ
て北方領土返還運動が進められました。
 更に、昭和22年には初めての住民大会となる「北海道附属島嶼復
帰懇請根室国民大会」が開催され、この大会で採択された北方領土
返還要求の宣言と決議は、連合軍最高司令官や政府に送付されまし
た。
戦後間もなく北方領土返還運動に
立ち上がった根室住民

北方領土返還運動の広がり
 
 返還運動が根室で盛り上がりをみせる中、昭和21年には札幌市と函館市でも団体が組織化され、返還運動が始まりました。その後、
この2つの団体と「北海道附属島嶼復帰懇請委員会」が統合し、昭和25年、「千島及び歯舞諸島返還懇請同盟(現在の北方領土復帰期
成同盟)」が発足しました。これによって、返還運動は全道的な取り組みへと広がっていきました。
 昭和31年、日ソ共同宣言が調印され国交は回復しましたが、平和条約の締結には至らなかったため、北方領土返還運動は一層高まり
ました。このような中で、元島民の結束を図るため、各地域で活動していた元島民団体の大同団結が図られ、昭和33年、「社団法人

北方領土復帰・北洋安全操業促進富山県民
パレード(昭和45年・黒部市)
 
千島歯舞諸島居住者連盟」が発足し、全国唯一の元島民団体として、今日まで北方
領土返還運動の中心的な役割を果たしてきました。
 また、北海道外では、富山県で「黒部市歯舞会」、「富山県歯舞諸島返還促進同
盟会」が相次いで結成されました。その後、両団体は合併し、富山県下での北方領
土返還運動の推進母体として活発な活動を展開しました。
 昭和40年代になると、全国規模で活動してる諸団体(日本青年団体協議会、全日
本労働総同盟、全国地域婦人団体連絡協議会、日本青年会議所等)でも返還運動が
進められるようになりました。
 また、昭和44年に設立された「特殊法人 北方領土問題対策協会(平成15年から
独立行政法人)」によって、全国的な啓発活動が積極的に展開されるようになりま
した。更に、これらの団体間の統一的機構として「北方領土返還要求運動連絡協議
会」が発足し、北方領土返還運動の全国的な推進に大きな役割を果たしています。
 そのほかにも、昭和40年代後半から47都道府県に次々と設立された県民会議によ
って、全国へと返還運動が広がっていきました。
 
 
北方領土返還運動の多様な取り組み


北方領土の日設定記念全国集会
(昭和56年・東京)








 昭和50年代に入り、領土問題への関心が次第に高まりを見せる中、さらに国
民世論を盛り上げて返還運動を発展させようとの思いから、「北方領土の日」
を制定しようという運動が活発になりました。そして昭和56年、政府は毎年2
月7日を「北方領土の日」として設定し、この日には、各地で大会が開かれ、
返還運動を盛り上げる取り組みが行われています。
 また、昭和56年には根室市の納沙布岬にシンボル像「四島のかけ橋」が建設
されました。すぐ側には「祈りの火」が灯され、北方領土返還への祈りと決意
を象徴しています。




 
全国から集められた署名簿










 北方領土問題への世論喚起と返還運動の普及に大きな役割を果たしてきた署
名運動は、昭和40年に始まり、その後、多くの人々の協力で全国に広がり、北
方領土返還のシンボル的な活動として着実な歩みを続けています。この全国か
ら集められた署名を携えて、国会に対する請願活動が毎年行われています。
 返還運動の次代を担う子供たちに向けて、北方領土や領土問題について分か
りやすく説明した図書などを作成して学校へ配布する取り組みも行われました。



 返還運動の取り組みは諸外国に対しても行われてきました。広く北方領土問
題を知ってもらおうと、海外使節団が派遣されています。昭和44年に始まり、
一時中断されましたが、昭和56年に再開され、欧米諸国を中心に行っていまし
たが、平成3年以降は同使節団が毎年ロシアを訪問し、政府・議会や報道機関
に直接思いを伝えています。

 
 
 当時、北方四島には1万7千名余りの人々が居住し、恵まれた自然環境の下で、漁業を中心
とした豊かな生活を営んでいました。
 しかし、終戦後ソ連軍は北方四島を不法占拠し、島民を島から追いやり、以来70年にも及
ぶ長い年月が過ぎ去りました。
 領土問題解決の展望が見えない中で、元島民の高齢化は進み、既に1万名以上の方々は亡く
なられています。
 この状況に伴い、領土返還運動を若い世代の方々に引き継いでいくことの必要性がますま
す高まってきています。

(人)
島名 昭和20年8月
15日現在
昭和20年4月
1日現在
平成27年3月31日現在
元居 新元居住者 元居 新元居 小計 2世 3世 4世




水晶島 986 13 389 13 402 1,000 653 17 2,072
勇留島 501 3 179 2 181 480 355 7 1,023
秋勇留島 88 1 35 1 36 99 70 2 207
志発島 2,249 22 904 22 926 2,247 1,625 21 4,819
多楽島 1,457 13 577 13 590 1,280 850 19 2,739
5,281 52 2,084 51 2,135 5,106 3,553 66 10,860
色丹島 1,038 19 350 17 367 968 786 8 2,129
国後島 7,364 148 2,696 141 2,837 7,173 5,730 111 15,851
択捉島 3,608 125 1,314 121 1,435 3,252 2,209 18 6,914
合計 17,291 344 6,444 330 6,774 16,499 12,278 203 35,754
平均年齢 - - 80.4 68.4 79.8 51.7 29.6 15.9 -

※1 本表の元居住者とは、昭和20年8月15日まで引き続き6月以上北方地域に生活の本拠を有していた者のことで
   ある。
※2 本表の新元居住者とは、上記1の子であって、昭和20年8月15日以前6月未満の期間内に北方地域で出生し、か
   つ、同日まで引き続き北方地域にいた者及び同日後同地域で出生した者のことである。

 
 
 戦争の被害もなく、平穏な生活をしていた島民にとって、ソ連軍の進駐は
予想もしないことで、一時パニックに陥った地域もありました。
各島を占拠したソ連軍は電信、電話などの通信施設を破壊し、一切の船舶の
航行を禁止して島民の自由を束縛し、日本本土との連絡を完全に遮断してし
まいました。当時北方領土には1万7千名余りが住んでいましたが、以降様々
な悲劇に遭遇し、苦難の道を歩くことになります。
 未だ嘗てない状況下に置かれた島民は、本土への避難脱出を決意するか、
先祖代々のふるさとや財産を守るために残留するか、二つに一つを選ぶ決断
を迫られました。脱出するために、綿密な計画を立て決行し成功した集落も
ありましたが、中には脱出時にソ連軍に発見されたり、荒波で船が遭難し、
命を落とした人もいました。

 
 残留した島民は、ソ連の占領下で自由を奪われ、15歳以上の成人は強制労
働を課せられて、働かない者には食料の配給がないという過酷な生活を強い
られました。当時本土とは一切の通信が途絶えて情報が不足し、特に引き揚
げに関する情報は混乱を極めました。
 ソ連による北方四島からの強制引き揚げは、昭和22年7月から実施されま
したが、携行荷物は世帯主13キロ、家族7キロと制限され、何班かに分けら
れて、ソ連の貨物船が停泊している近くに集められました。根室へ向かうと
思った引揚船は、樺太へ向かい、直ぐに入港せず2、3日付近の海上を回った
り停泊したりし、ほぼ1週間かけて上陸しました。


 
 樺太の真岡の女学校と小学校が一時的な収容所となりました。窓ガラスは
殆どなく、校舎には雪が舞っていましたが、暖房も電気もありませんでした。
食事はパンと豆入りの味のないスープと塩漬けの生鰊(ナマニシン)の毎日
でした。この劣悪な環境で、病弱な人達は病気が悪化し、次々と亡くなりま
した。
 ソ連側からの日本人引揚げ命令はある日突然やって来ました。引揚げ船が
入港し乗船したときは胸が高鳴り、提示したソ連発行の帰国証明書を官憲が
受理するまでは緊張の連続でした。宗谷海峡の境界線でソ連官憲が下船して
初めて、人間本来の自由を手にすることができたと船上の引揚者は安堵しま
した。

樺太・真岡から函館へ引き揚げ
 
 
 ソ連軍の監視から解放されての引き揚げは大変な喜びでした。
 船中では厚生省の係官が、島での生活の状況、行く先、今後の生活などの
聞き取り調査を行い、上陸してからの収容所では手厚い待遇を受けました。
 数日後、今後の生活へ不安を抱きながら親戚や知人を頼って、各地へ住む
場所を求めて向かい、行き先の当てがない多くの人は、島と関係の深い根室
方面に落ち着きました。
 しかし、その後もなお厳しい食糧難などの過酷な生活が続きました。
 
 
 
1855(安政元) 日魯通好条約(下田条約) 日本とロシアの国境を択捉島とウルップ島の間に決定
1875(明治8) 樺太千島交換条約 樺太全島とウルップ島以北の千島列島を交換
1905(明治38) ポーツマス条約(日露講和条約) 南樺太(北緯50度以南)が日本の領土に決定
1941(昭和16) 日ソ中立条約 日ソ相互の領土不可侵等を協約
1943(昭和18) カイロ宣言 領土不拡大の原則等を協約
1945(昭和20) ヤルタ協定

ポツダム宣言(7/26)
ソ連、対日宣戦布告(8/8)
ポツダム宣言受諾(8/14)
ソ連、北方四島占拠(8/28~9/5)
ソ連の参戦と引き換えに千島列島をソ連に引き渡すことを協定
  [1946・2発表 秘密協定]

カイロ宣言の領土不拡大の原則を継承
ソ連、対日参戦(8/9)
太平洋戦争終結(8/15)
1946(昭和21) ソ連、北方四島及び千島列島の
           ソ連領編入
効力発生を1945・9に遡及
1951(昭和26) サンフランシスコ平和条約 日本は南樺太(北緯50度以南)と千島列島を放棄
  (日本が放棄した千島列島には我が国固有の領土である北方四島は
  含まれていない)
1955(昭和30) 千島列島居住者連盟発足 全国の島民、関連団体が結集し、北方地域の元居住者、入会漁業権者、
出稼ぎ漁民等を網羅した任意団体として結成
1956(昭和31) 日ソ共同宣言(鳩山・ブルガーニン) 歯舞群島、色丹島を平和条約締結後に日本に引き渡すことに同意
日ソ間の国交を回復後、平和条約交渉を継続することを確認
1958(昭和33) (社)千島歯舞諸島居住者連盟設立 千島列島居住者連盟を中心に千島引揚同胞援護会、色丹島帰住対策協議会等の
島民団体が大同団結し、北方地域元居住者を会員とする総理大臣許可の
社団法人として設立
1964(昭和39) 北方領土墓参開始 人道的見地から実施
1965(昭和40) 北方領土返還要求署名運動開始 終戦20周年を記念し、100万人を目標に署名運動を開始
1973(昭和48) 日ソ共同声明(田中・ブレジネフ) 戦後の未解決の諸問題を解決し、平和条約締結のための交渉を継続することを確認
1976(昭和51) 北方領土墓参中断 ソ連側が旅券携行ビザ取得を要求してきたため墓参中断(S51~60の10年間中断)
1986(昭和61) 北方領土墓参再開
1991(平成3) 日ソ共同声明(海部・ゴルバチョフ) 北方四島の名前を列挙して、北方四島の帰属が平和条約において解決されるべき
領土問題の対象であることを初めて文書により確認
1992(平成4) 北方四島交流事業開始 相互理解の増進により領土問題解決への寄与を目的に実施
1993(平成5) 東京宣言(細川・エリツィン) 北方四島の名前を列挙して、北方四島の帰属問題を歴史的・法的事実に立脚し、
両国間で作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより
平和条約を締結するための交渉を継続することを確認
1997(平成9) クラスノヤルスク合意(橋本・
          エリツィン)
東京宣言に基づき、2000年までに平和条約締結に全力を尽くすことを確認
1998(平成10) 安全操業協定 北方四島周辺水域における日本漁船の操業に関する枠組みの設定
1999(平成11) 北方四島への自由訪問開始 人道的見地から元島民及びその家族のための訪問として実施
2001(平成13) イルクーツク声明(森・プーチン) 1956年の日ソ共同宣言が平和条約交渉の出発点を設定した基本的な法的文書
であることを確認し、その上で東京宣言に基づき、北方四島の帰属問題を
解決することにより平和条約を締結するための交渉を促進することを確認
2003(平成15) 日露行動計画採択(小泉・プーチン)


北方四島住民支援事業開始(2008年まで)
56年共同宣言、93年東京宣言、01年イルクーツク声明を特記し、北方四島の
帰属問題を解決することにより平和条約を締結するための交渉を加速する
ことを確認

人道的観点と領土問題解決のための環境整備を目的に実施
2008(平成20) (社)千島歯舞諸島居住者連盟
            創立50年
創立50周年記念式典挙行
2013(平成25) (公社)千島歯舞諸島居住者連盟設立 公益認定を受け公益社団法人として移行設立
                                                 (朱字:千島連盟関連事項)